2019年7月
インド北部の秘境スピティ谷から戻ったバシスト村は、6月の抜けるような青空から一変してガスが絶え間なく流れ込むモンスーンに入っていました。シトシト雨が降り続いたり、ザッとスコールのような通り雨の後に青空が広がったり落ち着きのない天気です。
時折見える青空の下、残雪輝くヒマラヤの山々はやっぱり美しかった。
そんなバシスト村には地域でかわいがられている犬たちがいて、だいたいいつもいる場所が決まっていました。
柴犬よりちょっと大きいくらいの毛足の長い、かわいらしい顔をした黒い犬は、いつも白い犬と一緒に温泉浴場の男湯下駄箱の棚で昼間は寝ています。大人しい犬たちで湯治客や長期滞在の旅行者たちにかわいがられていました。その黒い犬がいつからか後ろ足をちょっと引きずるようになりました。最初は「おや?腰でも痛めたかな?」そんな感じでした。
少しして早朝に温泉の洗濯場に行くと、インド人男性の足元にその黒い犬が倒れていて「この犬、いまさっき上から落ちて来たんだよ」と言います。なんでも2mくらい上の段差から転げ落ちて来たとのこと。犬はひっくり返ったままビックリしたような表情で眼だけ見開いてこちらを見ています。
「大丈夫かな?なんで落ちたんだろう?怪我はしてないかな?」なんてことを言いながら、温泉でビショビショになったその犬を男性が抱き起そうとしたその時、ふだんはとても大人しい犬が聞いたことも無いような悲鳴のような大きな鳴き声をギャン!とあげて、男性を噛みつくそぶりをみせました。
ビックリした男性が手を離すと、その犬はヨタヨタと後ろ足を引きずりながら走り去っていきました。その立ち去る姿を見たとき、ちょっと嫌な感じがしました。(あれは怪我じゃない、あの犬は病気になってる)そう感じました。
男性に「噛まれなかった?歯は当たらなかった?」と聞くと「大丈夫だよ、怪我して痛いところを触っちゃったかな?すごい声だったね」と言います。
「あの犬・・・もしかしたら狂犬病かも、念のためワクチン接種した方がいい」と男性に言いました。
というのもインドに来る前のタイで三昧が怪我をした足を人懐っこい犬が舐めて狂犬病ワクチンを打った経緯があるからです。その時にいろいろ狂犬病について調べ、海外ではなるべく動物に触れないように、そして洞窟にも入らないようにしていました。
次にその犬を見たときは、いつも寝床にしていた男湯の下駄箱の近くでした。もう下駄箱の棚に乗ることもできず、細い路地の真ん中に倒れていました。
もう前足も動かないようで、ダラリと開いた口から舌がこぼれ、なのに眼だけがクワっと大きく見開かれて近くを通る人の動きを追っていました。そしてすぐ近くでは相棒の白い犬が見守っていました。
黒い犬は自分の身に何がおきたか理解できないようで(なんで体が動かないの?なんでみんな避けていくの?)と問うように眼で今まで優しくしてくれた、なのに今は誰一人近づこうとしない人々の動く方を追っています。
その時です。「どうして!どうしてなの!」と女性の悲鳴のような叫び声が響きました。
見ると欧米の女性が小さな仔犬を抱きながら、涙を流し立ちすくんでいました。彼女はおそらく長期滞在の旅行者で犬たちをかわいがり世話をしていたひとりだと思います。そしてこの黒い犬の身に何がおきたかを、このとき初めて知ったんだと思います。
周囲の眼も気にせず泣きじゃくる彼女は、狂犬病への恐怖ではなく、ただ、ただ、かわいがっていた犬がもうどうにもならないことになってしまったことへの絶望に打ちひしがれているように見えました。
私に向かって女性が「ダメ・・・近づいたらダメよ・・」と泣きながら言います。「わかってるから、大丈夫だから」と彼女に言うと、抱いていた仔犬に顔をうずめワッと声をたてて泣いていました。
最後に黒い犬を見たときは、男湯の下駄箱から15mくらいも離れた女湯の前でした。この体でどうやってここまで移動したんだろう?
シトシト雨が降る中で犬は倒れたまま動かなかったですが、時折体を小さく動かし苦しそうな、とても苦しそうな哀しい鳴き声をあげていました。あまりに哀しい鳴き声に耳を塞いでその場から逃げ出したい気持ちでした。
道行く人は遠巻きに切なそうな表情を向けることしかできません。体を撫でてあげることも、あたたかな場所に寝せてあげることもできません。ちいさな体にはまだ生きているというのにたくさんのハエが群がっていました。
狂犬病というのはなんて残酷なウイルスなんだろう、と思いました。
いまも肌寒い小雨の日になると、あの犬のことをフト思い出すときがあります。