2019年2月14日
この日、メ―ラム・パゴダと共に、ヤンゴンでもう一か所訪問したのがコチラ。
ヤンゴン日本人墓地
元々は別の場所にあった日本人墓地をヤンゴン都市開発に伴い1998年に移転開園し、霊園として綺麗に管理し現在に至るようです。
ここには戦前より日本からミャンマー(ビルマ)へ移り住んだ人々の遺骨とともに、
多くの第二次世界大戦による戦没者も眠っています。
第二次世界大戦中に兵士としてビルマに渡り、戦後は犠牲になった人々への鎮魂と供養のため僧侶としてビルマに残った「ビルマの竪琴」の水島上等兵があまりに有名ですが、そのモデルとなったといわれる僧侶の碑もここにあります。
墓地では何人かのミャンマー人が草むしりをしたり、水をまいたり、壁の修繕をしたり、暑い中ほんとうによく手入れをしてくれていました。
手入れの行き届いた園内には各団体や関係者が建てた慰霊碑が並んでいました。
こちらは岡山県の碑。
そして鳥取県。石碑は西日本が多い印象でした。西日本から出兵した人が多かったんでしょうか。
一番奥には大きく立派な慰霊碑がありました。
するとミャンマー人の女性がやってきて、日本風に深々とおじぎをし、線香に火をつけ手渡してくれました。こうしてミャンマーの人が日々日本人墓地を守ってくれているんだと思うと感謝しきりです。記帳とともに少しばかりの寄付をお渡ししました。
もしかしたらミャンマーを訪れる若い世代の多くの人は知る由もないかもしれませんが、第二次大戦中のミャンマー(ビルマ)は日本とイギリスの激しい戦闘の地となり、日本人だけでも18万5千149人もの尊い命が失われています。
18万5千149人・・それだけでも気の遠くなるような人数ですが。
中でもミャンマー(ビルマ)とインドとの国境付近で行われたインパール作戦は、後世「史上最悪の作戦」と呼ばれることとなる劣悪なもので、多くの尊い命が悲惨極まりない惨状下で失われました。
戦後、世界各地で遺骨の収集は試みられていますが、外国人入域制限が多く今なお国境付近の情勢が不安定なミャンマーでは相当に困難を極めていることは容易に想像できます。遺骨が土にかえってしまう前に、ひとりでも多く故郷に帰してあげて欲しいと切に願います。
立派に成長した息子さんの親孝行、お父さんの生きた証ですね。参拝した多くの日本人が足をとめ、お父さんのことを記憶することと思います。
こちらの御方はビルマ戦を生きて帰られたのですね。ゾウが好きだったのかな。
長い年月の暮らしの中で、心の中にはいつも若くして亡くなった戦友たちの姿があったんだと思います。いつか戦友の元へ・・・と思っていたんでしょうか。今頃は戦友の皆さんと再会されているといいなぁ。
よく戦後〇年と言うけれど、たくさんの方々が悲しみを心の中に持って生きた日々を思うと、本当の意味での終戦なんてないんじゃないかと思います。
つきなみですが、戦争は絶対よくない、この言葉に尽きます。
ちなみにこの日本人墓地は車もあまり通らない寂しい場所にあるので、グラブタクシーもなかなか来てくれずちょっと困りました。タクシーで来られる場合は最初から往復でお願いした方がいいと思います。
ヤンゴン観光を終え宿泊していたホテルに戻ると、フロントのお姉さんがチョコをくれました。
「そうか・・きょうはバレンタインデーだったんだ。」
次回はミャンマー観光では外せない(らしい)チャイティーヨーとバゴーを一気見学です!