トゥール・スレン虐殺博物館(S21)とチェンエク大量虐殺センター(キリングフィールド)

このページでは、カンボジアで起きた残酷で悲しいできごとが書かれています。人によっては気分が悪くなるかもしれません。もし苦手であれば、このページを閉じてください。

ただ、今からそう遠い過去ではない時代に、何の罪もない大勢の人々が無念の死を遂げた事実だけは知ってください。

 

2018年12月プノンペンはとにかく暑くて毎日が猛暑でした。観光意欲も消失するほどの暑さでしたが、どうしても行っておきたい場所がありました。

遡る事8年前、2010年7月26日カンボジア特別法廷にて、元S21所長ドッチ被告に禁固35年の有罪判決が言い渡されたというニュースが流れました。

S21、またの名を「トゥール・スレン」。

クメールルージュにより発生した民主カンプチアの元、1975年から1979年の間に170万人ものカンボジア国民が惨殺されたあの悪しき政権時代、革命の邪魔になるとされた人々が収容され拷問を受けた極秘施設S21(トゥール・スレン)。その狂気の閉鎖的空間で所長という権力を握っていたドッチ被告に遂に有罪判決が下されたのです。

(いったいどんな悪人面の人間なんだろ)と画面を見つめると、

そこに映し出されたドッチ被告は、約20000人もの罪なき人々に死刑を命じた狂気の欠片は無く、孫と日向ぼっこしていそうなごく普通のお爺さんでした。

クメールルージュにはオンカーという極秘組織があり、そのオンカーによりスパイ容疑をかけられた人々がS21に連行されたそうですが、そのオンカーでさえある日スパイ容疑をかけられ処刑されるという。

疑心暗鬼の渦の中で人間のの良心が決壊する、ドッチ被告もまた、その渦に呑まれ正気を失ったひとりだったんでしようか。

 

トゥール・スレン虐殺博物館

 

チケットブースでは、入館料とは別料金で日本語の音声ガイドを借りることができます。この音声ガイド、とてもわかりやすい解説で、聞き取りやすく、かなりうまく出来ていると思います。絶対借りた方がいいと思います。

 

見学者は欧米人が多い印象でしたが、この日はたくさんのカンボジア人も見学に来ていました。これから入館する人には笑顔も見えるんですが、見学を終えた人の表情は、みんな一様に凍り付いていました。悲しいとか怒りとか、そんな感情ではなく、無表情に凍り付いているんです。その姿を見て展示の内容がいかに悲惨なものか想像できました。

この収容所に連行された人々は約20000人。そして生還できたのはわずか数名。連行された人々はプノンペンから約15㎞離れたチェンエク村に運ばれ、後にキリングフィールドと呼ばれる施設にて惨殺されました。

このS21の存在は極秘中の極秘。国外は勿論、国内においてもこの施設の存在を知るものは無かったようです。

 

施設に入ってまず目につくのが14の棺。これは1979年1月にベトナム軍がプノンペンを制圧した翌日、この施設を発見した際にベッドに拘束されたまま放置された14の遺体を発見。その14名の犠牲者を弔う棺だそうです。この遺体はクメール・ルージュ撤退間際に殺害されたとみられていて、どこの誰かはわからないそうです。慌てて殺害したところをみると、何か重要な内部事情を知っていた人だったのかもしれません。

 

a棟です。この校舎跡の一階各部屋には、遺体発見当時のまま簡易ベッドがポツンと置かれています。

 

ベトナムの従軍記者が乗り込んだ当初、プノンペンの暑い気候で遺体は激しく腐敗し、強烈な異臭があたり一面に充満していたそうです。音声ガイドが「遺体を発見した人の気持ちを考えてみてください」と言っていましたが、その衝撃は計り知れないものがあったと思います。

 

拷問のため体を拘束していた器具、当時から置かれているのか色褪せボロボロになった「むしろ」、そのベッドの真下は腐敗した遺体から漏れ出たものか、どの床も黒く染まっています。そして壁には、発見同時の遺体の写真も掲示されていました。

・・悲惨だ。

顔がアップになる個所は白い紙で隠されていましが・・悲惨でした。

 

蒸し暑い無機質な部屋に、ポツンとベッドだけ置かれ、静かにファンが回る光景は、まるで悪夢の中にいるようです。

トゥール・スレン(S21)は、実際にここで処刑する場所ではなく、スパイ容疑をかけられ連行された人々の自白調書をとるための、いわゆる拷問施設でした。処刑するための大義名分を掲げるたに、まったく事実と反する「自白の強要」を迫るわけですが、その業務(拷問)を行っていた側の看守達の写真もズラリと掲示されていました。この写真群もまた、この施設の異常さを浮き彫りにします。なぜならその多くはまだ幼さの残る少年少女達だったからです。

看守と呼ばれる少年少女達は、自白調書にサインを書かせるため連行された人々を激しく拷問するわけですが、看守達自身も当然のように上からの監視と強い抑圧があり、良心の崩壊した異常な精神状態の中にいたと思います。来る日も来る日も次々と収容される人々を拷問し、サインを取れぬまま亡くなってしまった遺体に対しては(上から自分が責められるので)「なぜサインを書く前に死んだんだ」と、怒りを制御できぬまま蹴り続けたとのこと。

そしてここでの音声ガイドが「この写真に写っている看守の多くも最後は処刑されました」の結末にも背筋に寒いものを感じました。

 

この用具は健全なスポーツ器具じゃないですよ。元々はそうだったんですが、S21ではこれに人を逆さに吊るして下にある瓶に頭を突っ込みました。それも水攻めとか、そんなヌルいもんじゃないです。瓶の中は人の排泄物です。糞便の中に頭を突っ込むんです。

 

数少ない生存者の一人、故ヴァン・ナット氏の描いた当時の様子も展示されていました。

 

この限られた空間の中で繰り広げられた、あまりにえげつない行為の数々。

見学を終えた後は、私の表情も他の見学者同様に、きっと凍り付いていたと思います。

そんな地獄の空間だった場所も現在は綺麗に整備され、葉を広げる樹木が涼しげな木陰を作り、死者の魂を慰めるといわれるプルメリアの白い花が咲いていました。

 

なぜか鳥たちが放し飼いにされていたり、

 

モルモットの親子も放し飼いにされていたり。

突然周囲を走り出したニワトリの群れに驚いて、欧米人グループがベンチの上に飛び乗り身を寄せ合ってキャアキャア騒ぎ、それを見ていたカンボジア人が笑っていたり。今は平和な時代で本当によかったと思いました。

 

チェンエク大量虐殺センター(キリングフィールド)

 

トゥール・スレン虐殺博物館の翌日は、トゥクトゥクでチェンエク大量虐殺センター(キリングフィールド)に行ってみました。トゥール・スレン虐殺博物館の後にキリングフィールドを見学するというこの順番は、被害者の通った最後の道を体感するためにも外せませんでした。

 

プノンペンの繁華街からほんの少し外れたガラーンとした農地や草地の広がる場所にキリングフィールドはありました。周囲はやけにガランとした寂しい場所ですが、そういう場所でなければなりませんでした。なにしろキリングフィールドの存在もまた極秘だったからです。

とはいえ、ここで殺害された人の数を考えると、隠すにはもはや無理のあるレベルと思います。

夜な夜な大勢の人々がS21からトラックに乗せられここに移送され、そして次々と殺害されていきました。

老若男女関係なしに、子供や赤ん坊まで殺されました。

 

そして遺体はその辺の窪地などに無造作に埋められ、このキリングフィールドの周辺にもまだ掘り起こされていない遺体が相当数あるといわれています。

 

カンボジア国内では「犠牲者をそっと静かに眠らせてあげた方がいいんじゃないか」という考えも多く、あえて掘り起こしていない、という事もあるそうです。

 

チェンエクのキリングフィールドで見学者の心に一番インパクトを与えるのがこの「キリングツリー」じゃないでしょうか。

 

この木に赤ん坊の頭を叩きつけ殺したという、クメールルージュの異常さを一番ストレートに知ることができる場所だと思います。発見当初は殺された赤ん坊たちの毛や脳みそがこびりついていたというからおぞましい。

この木の周りは一番見学者が多く、音声ガイドから流れる内容も衝撃的で、しゃがみ込み涙を流す欧米の若い女の子もいました。

 

そして狂気際立つ異常さは、ここで行われた一連の残忍極まりない殺害が、トゥール・スレンにズラリと並んだあの「看守」と言われる少年少女たちと変わらない若い年齢層によって行われた事だと思います。

 

あのトゥール・スレンの音声ガイドが「この写真に写っている看守の多くも最後は処刑されました」と言っていたように、この死刑執行に当たった子供達の多くもまた、最後は(証拠隠滅のため)殺されてしまったのかなぁ・・と思いました。

 

慰霊塔です。

 

内部には被害者の頭蓋骨が無数に陳列されていました。

その頭蓋骨は年代別に分かれ並んでいました。

私はふたつの年代の前で足をとめました。ひとつは、現在の私達と同年代で亡くなった遺骨。そしてもうひとつが、もし生きていたら私達と同世代になっていた幼い遺骨。

 

肉付きもなく無機質にも見えますが、みんなそれぞれに、かけがえのない人生があって、愛する人がいて、大切な家族がいて、日本とカンボジア、ほんの少し生まれた場所が違っただけでこんな風に生涯を閉じなくちゃならなかったなんて、本当に無念だったろう、と思います。

 

最後にもう一度、慰霊塔を振り返りました。

 

(みんな、帰りたかっただろな・・。)

 

外ではトゥクトゥクの運転手さんが待っていてくれているので、冷たい水のペットボトルをお土産に施設を出ました。

あの日、大勢の人々が二度とくぐることのできなかった門をくぐって、私達は外へ出ます。

 

そして彼等が決して見ることの叶わなかったプノンペンへの道を、ジッと見つめながらトゥクトゥクに揺られました。
 

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