ベトナム戦争の激動と悲劇を知る|ホーチミン・戦争証跡博物館と統一会堂

このページでは、ベトナムでおきた悲惨な戦争について書かれています。人によっては気分が悪くなるかもしれません。もし苦手であれば、このページを閉じてください。

ただ、今からそう遠い過去ではない時代に、何の罪もない大勢の人々が無念の死を遂げた、戦争の愚かさだけでも、知っていてください。同じ過ちを二度と繰り返さないために。

ホーチミンでの滞在はわずか3泊の駆け足で、その貴重な3日間のうち1日は台風通過という生憎の天気でした。宿泊したホテル周辺では倒木で電線切れて夜に停電になっちゃうし。

停電時は不安になったスタッフやゲストがフロントに集まりウロウロしています。フロントのお兄さんによると外は冠水してるし大変なことになってるってことです。

いったん部屋に戻った三昧が上下山岳用レインウェア+ヘッドランプのフル装備で再びフロントに登場した時は、

「えええっっっっっーーー!こんな時にどこ行くの!?」

と、ホラー映画のゾンビでも見るかのように驚愕。

「ちょっと外の様子みてくる」

「気を付けて!」

と皆の声援をうけて外へ。

 

倒木が見事に電線にヒットしてました。

再びホテルに戻ると、みんな緊張した様子で固唾をのんで報告を待っています。

「だめだこりゃ~」と告げると、ようやく皆にも笑顔が。

マイペースなベトナムのことだから、次に通電するのは当分先かな~、なんて思っていたんですが、なんと数時間後には回復し、

 

二日後には倒木も綺麗に撤去されていました。・・・なかなかやるじゃないの、ホーチミン。

 

こんな平和なベトナムですが、ほんの40数年前まで泥沼の激戦地でした。

 

現在のベトナムからは想像できませんが、街々は破壊尽くされ毎日多くの人が死んでいったんです。

 

いわゆる「ベトナム戦争」です。

 

今回ホーチミンに来たのは、このベトナム戦争の関連施設を見学するためでした。

 

戦争証跡博物館

 

この博物館、三度名前を変えていて、1975年のオープン当初は「アメリカ・傀儡政府犯罪展示館」という恨み満載の名称でしたが、外国人個人旅行者の解禁を行った1990年「侵略戦争犯罪展示館」と名前を変えています。そしてアメリカと国交を回復した1995年、現在の「戦争証跡博物館」になりました。なんか、わかりやすい改名っちゃ、改名ですけど。

二か所あるチケットカウンターのうち、レ・クィ・ドン通りの中庭はベトナム版スタバの「ハイランドコーヒー」もありました。

 

展示内容は主にアメリカが軍事介入した後の「悲劇的なベトナム」が中心になっています。

戦争の残酷さが生々しく写し出された写真が並び、人によっては気分が悪くなるかもしれません。でも戦争って、こうなるんだって知るためにも、見ておいた方がいいと思います。

 

これより、残酷な画像が続きます。

 

1968年3月16日に起きたソンミ村虐殺事件です。

 

たった4時間のうちに婦女子を多数含む無抵抗の村民504人が殺害され、家屋や家畜全てが焼き払われたベトナム戦争の狂気の代名詞となった事件です。人々は執拗に何発も銃弾を撃ち込まれ体が粉々に飛び散ったといわれます。

 

あまりの狂気っぷりに同隊に所属していた兵士のひとりは、蛮行に加わらないために自らの足を銃で撃ちぬいて離脱したほど。さらにたまたま通りがかった米軍の偵察ヘリが、このあまりの惨状を目の当たりにし「今すぐやめないと撃つ」と、同胞に銃口を向けたという、それほど残忍な状況だったようです。

この蛮行、当初ゲリラ戦と偽り隠されていたものの、ベトナム帰還兵による調査依頼→敏腕記者のシーモア・ハーシュにすっぱ抜かれ明るみになるという顛末。

ベトナム戦時下は規模の差こそあれ、あちこちでこのような殺戮行為が行われました。戦争っていうのは、人の心を狂わせ、麻痺させるんだと思います。

 

こちらはクラスター爆弾です。親玉の中に入った小さな子爆弾が広範囲かつ大量にばら撒かれるため、無差別に多くの犠牲者を出す非人道的兵器といわれています。

 

クラスター爆弾はあえて不発弾を仕込み、その色や形状は子供をひきつけ、拾った弾みで爆発させるという。あまりに残酷な兵器ということで、国際条約で禁止されています。兵器に非人道的もクソもないような気もします。

日本はこれまで保有していたクラスター弾の廃棄完了を2015年2月10日に発表。ただ2017年にオランダのPAXが発表した、クラスター爆弾を製造している企業に投融資している金融機関を発表したところ、なんと日本は4社もあったんです。武器とか兵器とかってやっぱり甘い蜜が吸えるんですかね。

 

ベトナム戦争では多くのジャーナリストが戦地取材をし、その生々しい戦地(本来なら人々が平和に暮らすべき街)の様子が日々、メディアを通して世界に発信されました。

 

三階では、その戦場カメラマンに焦点を当てていました。

 

「安全への逃避」あまりに有名な、沢田教一氏の作品。つい最近、池上さんの番組で被写体となった子供たちが、おじさん・おばさんになって登場してました。優しい笑顔で、その後の暮らしは穏やかだったんだなぁと想像しました。沢田教一氏は後にカンボジアで殺害されます。

 

「安全へのダイブ」、そして没後に出版された「地雷を踏んだらサヨウナラ」で知られる一ノ瀬泰造氏のカメラ。弾痕が生々しく、戦場の恐怖がリアルに伝わってきました。この一ノ瀬泰造氏、後に乗り込んだアンコールワットで、クメール・ルージュに殺害されてしまいます。今じゃ連日観光客で溢れるあのアンコールワットがそんな状況だったなんて、本当に恐ろしい時代だと思いました。

 

その沢田教一氏や一ノ瀬泰造氏を含め、これほど多くのカメラマンが戦場で殉職されました。

 

そして行方不明となっている方々も。

彼らのおかげで、今こうしてベトナム戦争の悲劇を知ることができます。

展示物の中でひときわ多く取り上げられているのが、日本人カメラマン・石川文洋氏の作品です。石川文洋氏の写真を見て、私はこれはレクイエムだと思いました。敵とか味方とかなしに、心を痛めた全ての人へのレクイエム。

2015年戦争証跡博物館創立40周年記念にあたり写真を寄贈していますが、添えられた文面にはこう記されていました。

私は沖縄で生まれました。アジア・太平洋戦争の時、日本軍と上陸した米軍との戦闘に巻き込まれた沖縄の人々は、人口の4人に1人の割合、12万人以上が犠牲となりました。米軍の爆撃、艦砲射撃、砲弾は人命を奪うだけでなく、文化財、自然も破壊しました。

ベトナムの戦場で多くの民間人が命を失い国土が破壊されていく状況を私は沖縄戦と重ねながら撮影しました。今でも存在する沖縄の基地が、ベトナム戦争での米軍を支えていたことも沖縄人として心を痛めました。(石川文洋)

 

命こそ宝
少年の血が乾いた土に吸い込まれた。殺されなければいろいろな体験ができて、今頃は孫と遊んでいたかもしれない。(石川文洋)

 

平和であれば友達
私はベトナム人が好きなので傷つけあう若者たちの状況に心を痛めた。今、私の故郷・沖縄でも米軍基地を支持する人、しない人が対立している。(石川文洋)

 

鮮血
若い兵士の体から血が流れていた。後に戦死が確認された。故郷には両親や兄妹もいるだろうと可哀想だった。(石川文洋)

 

そしてもう一人、多くの作品展示がされた日本人カメラマン・中村悟郎氏。こちらはベトナム戦争における枯葉剤がテーマになっていました。枯葉剤(ダイオキシン)被害について長年取材を続けています。枯葉剤はゲリラ拠点だった南部のジャングルを枯らす目的で、米軍により大量散布されました。

 

衝撃的だったのが、この2枚の写真です。左側は枯葉剤が撒かれ丸裸になったマングローブ林、中央にはどこにでもいる元気でわんぱくそうな少年が写っています。そして右側には大人になった少年のその後の姿。なんと彼は枯葉剤の影響で強い障害が出てしまっていました。枯葉剤の影響というのは、胎児の頃に受けたものだけかと思っていたけど、あんなに健康で活発そうな少年がこうなってしまうのかと、かなり衝撃的でした。ベトナム人のみならず、アメリカや韓国の帰還兵にもダイオキシン被害に遭った人がいたそうです。

 

屋外には、米軍が使用した戦車や航空機など。

 

この猫は戦車に住み着いているようで、底から潜って中に入り込んでいました。今は戦車が猫の住処になる平和な時代です。

 

そして爆弾。

 

再現された捕虜施設もありました。

この施設を見学した感想は、ありきたりですが、やっぱり戦争はよくない。これに尽きると思います。

 

統一会堂

 

1975年4月30日午前、当時就任したばかりのズオン・バンミン大統領が無条件降伏をラジオ放送で発表し、南ベトナム大統領官邸(現:統一会堂)に北ベトナムの戦車が突っ込むという劇的なサイゴン陥落の様子が世界を駆け巡りました。あらためて考えてみると、これにより南ベトナムという国が消滅してしまった、かなり衝撃的な場面ですが。後にベトナムは正式に南北統一するわけですが、そのきっかけの舞台となったシンボリック的存在の施設です。

戦争証跡博物館から近く、ぷらぷら歩いて移動ができます。行ってみると、なんと昼休み中でした。ベトナムの施設ってしっかりと昼休みをとる所が多いです。

出直して再度訪問。

とても綺麗に整備された広く優雅な施設は、ゴミの散らばる街中と同じ国の施設とは思えません。

 

1975年4月30日戦車のレプリカが置かれていました。こちらは正門から最初に突っ込んだ390号。勿論、当時大統領官邸だった統一会堂の屋上に旗を掲げた843号のレプリカも置かれていました。

 

さすが大統領官邸として使用されていただけあって品のいい雰囲気です。

 

屋上のヘリポート。外はスコールが降っていました。

この御殿には、もうひとつの顔があります。

 

バックヤードにある厨房横に地下へ行くこぢんまりとした通路があります。

 

その先には・・

 

無機質な軍事施設がありました。複雑に入り組んだ細い廊下沿いにいくつもの小部屋。

豪華絢爛華やかな上層部とうってかわっての、この無機質っぷり。

 

無駄なものは無く・・といっても当時はあったかもしれませんが、現在は空っぽで、怖いくらい無機質です。

そして何より、強烈に蒸し暑いです。北ベトナムにやられる前に暑さにやられそうですが。当時の人は大丈夫だったんでしょうか?

最後は映像室で、統一会堂の歴史について学びました。幾つかの言語別に部屋がわかれていて、なんと日本語の映像が流れる部屋もありました。映像がいよいよ終盤にさしかかるという所で某ツアーの団体さんがどやどやと入ってきて、ガイドさんが私達をチラリと見つつ映像を突如切り、最初からスタートさせるという暴挙に。「うぉぉーーっっ、なんという図々しい真似すんじゃぁぁぁ」(と、小心者なので心の中で叫ぶ)

でも、まぁ、ぶっちゃけこの映像、似たような名前の登場人物が続々と登場して、わけがかわらなくなりかけていたんで、2回見てようやく理解できるレベルでした。

 

外に出る頃にはスコールも止み、遅い昼食を通りの屋台で食べました。ベトナムは食べ物が美味しくて安いし、お店もいっぱいあるんで、食事の苦労が無いのが嬉しいです。

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